本日はいつもと趣向を変えて、日本歴史について書いていこうと思います。
自分は大の歴史好きです(バリバリの理系でありながら、進路指導されたときは文系適性があると言われ、歴史の授業では資料集ばかり読んでいたほど)。
日本の歴史は縄文時代から始まり、奈良時代や平安時代の公家政治から室町幕府から江戸幕府までの武家政治、明治維新を経て近代へと至ります。
皆さんは色々好きな時代はあるでしょうが、やはり最も人気があるのは「戦国時代」でしょうか。
中国で言えば、春秋戦国時代、三国時代など色々ありますが、やはり魏、呉、蜀の三国時代が好きな人が多いでしょうね。
歴史に詳しくなくても、劉備や孫策、曹操といった代表的な名称を知らないという人は少ないと思います。
話を戻しまして、どの国でも争いは絶えず、そのたびに武に秀でた、あるいは智に秀でた人物が後世にまで名を残しています。
争いが多ければ多いほど、長ければ長いほど、皮肉にもその人物の数は多くなります。
今回は日本の一大戦乱の時代である戦国時代、その中で個人的に最も好きな「武田家」について紹介したいと思います。
そもそも日本の戦国時代とは?
日本の戦国時代については小学生の歴史でも習いますね。
小学校を卒業していれば否が応でも日本の歴史について学びます。
まずは初歩的な話として、「なぜ戦国時代が起こったのか」をさっくりと解説します。
自分は学芸員でもなければ、歴史家でもないですし、そもそも上記の通りバリバリの理系です。
長く語ればそれだけで本1冊ができてしまうレベルですので、大まかな流れだけを紹介します。
なぜ戦乱の時代が起こったか
超簡単に一言で言えば「権力を握ろうとした二大派閥が原因」です。
はい、まさに今の日本政府の与党でもある派閥の争いですね。
いつの時代でも「自分がNo.1、この国を動かす最大権力者だ」というのはどの国でもあることです。
上記初代将軍である足利尊氏が開き、3代目将軍である足利義満が鹿苑寺金閣(金閣寺)を建てたり、当時中国の明との貿易をしたりと日の本を安定させた室町幕府も時の流れと衰えは隠せないもの。
8代目将軍である足利義政は3段目将軍に倣って、慈照寺銀閣(銀閣寺)を建てたりとまだまだ足利家の勢力は全国に轟いていました。
しかし、当時の日の本は「守護」という土地管理者、今でいう「都道府県知事」に相当する大名(守護大名)が日の本に多数いて、自分の領地を少しでも広げようと諍いがあった時代でもありました。
その中でも将軍に次ぐ「管領」という地方管理者(例えるなら関東地方を丸ごとまとめて治める地方代表者)がいました。
この管領は当時で言う日本統治者No.2であり、今の日本政府で言えば「内閣官房長官」と言ったところでしょうか。
自治権が与えられていたりするところで、内閣広報担当である内閣官房長官とはちょっと違うところがありますが、言いたいところは「当時の日本の権力者No.2」というところです。
当時のNo.2は1人ではなく、2人の超有力者がいました。
1人は細川家の細川勝元。
もう1人は山名家の山名宗全。
元は足利将軍家をサポートする立場でしたが、どちらも権力をふるいたく、仲が悪かった状態です。
少し詳細は省きますが、この両者は抜け駆けされまいと、勢力を伸ばそうと対立を深めていきます。
一度始まったらもう納められない。
それほど両者の対立は深く、トップである足利将軍家も抑えようとしても抑えられないほどになります。
結果、トップも治められない、日本は統治の行き届かない状態に陥ります。
そうなると各地の大名たちは「あれ?上が勝手に争っていて、こっちの管理は全然されてないじゃん」、「自分勝手しても将軍も管領も何も言ってこないし(一応争いは起こさないよう書状貰っても今や実権ほぼないから無意味)、自分たちで好きなようにこの土地を治めればいいじゃね?」を各地の大名たちは荒れ果てた日本で独自に勢力を伸ばしていきます。
当然、各地の大名は自分たちの領地を取られまい、逆に奪い取って勢力を伸ばし、あわよくば自分が衰退してお飾り状態の足利将軍家に取って変わる日の本の統治者になろうとしていき、「戦国時代」が始まるというわけです。
武田家について
色々あって、織田家が天下を取る目前で、織田信長が明智光秀に謀殺され(1582年の本能寺の変)、仇討ちを果たした羽柴秀吉(後の豊臣秀吉。農民生まれの立身出世の代名詞)が天下を握ることになるのは誰もが知っていることでしょう。
武田家はその戦国時代の一大名です。
治めていた土地は年代によって幅があるものの、今でいう「山梨県」に相当する甲斐地方の大名です。
武田家でもっとも有名なのは、何といっても「武田信玄」でしょうね。
あの越後の龍である長尾景虎こと「上杉謙信」と幾度となく争った「甲斐の虎」です。
「信玄」というのは出家(仏門に入ること)して改名した名前で、出家前は「武田晴信」という名前でした。
父は武田信虎であり、息子として生まれてきた晴信は父が構築した猛将軍団である「武田四天王」を引き継ぎ、甲信地方で躍進します。
初代武田四天王は以下の4名です。
(一般人からすればマイナーで知らないでしょうが、「信長の野望」などの戦国時代SLGをやったことがあれば知っている人も多いかと思います)
板垣信方(いたがき のぶかた)
甘利虎泰(あまり とらやす)
飯富虎昌(おぶ とらまさ)
小山田昌辰(おやまだ まさたつ)
父・信虎から引き継いだ武田四天王をさらに昇華させ、いわゆる「風林火山」と呼ばれた非常に屈強な四天王が誕生します。
これが晴信が構築した2代目武田四天王です。
風:内藤昌秀(ないとう まさひで)
林:春日虎綱(かすが とらつな)
火:馬場信春(ばば のぶはる)
山:山県昌景(やまがた まさかげ)
春日虎綱は撤退の上手さから「逃げ弾正」(弾正は「その分野で特に秀でた人」という意味)、馬場信春は美濃(今でいう岐阜県に相当)を治め、東日本でも特に武に優れたことから「鬼美濃」と呼ばれたりするほど、4人とも猛将でした。
風林火山とは
由来は中国の武術書である「孫子の兵法」に記された一部です。
よく勘違いされるのは「積極的に争って勝つための兵法書」と思われがちですが、孫子の兵法の出だしには「兵は詭道なり」と「争いは邪道。可能な限り、外交によって争わずに事を済ませること」と説いています。
ただ、当然ながら孫子が生きた時代も戦乱の時代。
外交だけで事が済むほど甘い時代ではありませんでした。
そのため、武力衝突が起きた際の兵の動かし方について説いています。
「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山、難知如陰、動如雷霆、掠郷分衆、廓地分利、懸權而動」
白文だと何を書いているか分かりませんね。
書き下し文で書くと以下のようになります。
其疾如風:其の疾(はや)きこと風の如(ごと)く、
其徐如林:其の徐(しず)かなること林の如く、
侵掠如火:侵掠(しんりゃく)すること火の如く、
不動如山:動かざること山の如し、
難知如陰:知り難きこと陰(かげ)の如く、
動如雷霆:動くこと雷霆(らいてい)の如し、
掠郷分衆:郷を掠(かす)めて衆を分かち、
廓地分利:地を廓(ひろ)めて利を分かち、
懸權而動:権を懸けて動く。
この最初の4小節が「風林火山」の由来です。
意味としては
兵を動かすときは風のように速く動かし、
動く時ではないことは林のように静かに待ち、
行動(侵略)を起こした際は火の手が一気に回るときのように苛烈に侵略し、
守りに入った際は、山のようにどっしりと構えること
と説いています。
後の文を見れば分かりますが、「陰」や「雷」の文字もあります。
意味は
秘密は影のように暗く悟られないように、
行軍の速さは落ちる雷のように速く、
と言ったところでしょうか。
武田家では表立って編成されていませんでしたが、もしかしたら相当する人物がいたのかもしれませんね。
武田家の功績
ここで書くと本当に長くなりますので、掻い摘んで書きます。
村上家・村上義清との戦い
甲斐国を手中に治めていた信玄は、まず西に隣接する「南信濃」に手を伸ばします。
東には北条家、南には今川家がいましたが、当時は同盟を結んでいて互いに侵略をしないと約束している状態でした。
なので、まずは西に向けて兵を進めたわけですね。
そこには槍の名手で猛将の「村上義清(むらかみ よしきよ)」と戦いました。
この村上家にはさすがの武田家も苦戦を強いられ、初代武田四天王の板垣信方や甘利虎泰といった重臣を失います。
結果、多大な被害を被りましたが武田家の勝利となります。
ちなみに、村上義清は討ち取られずに敗走して、北の越後に逃げ込み上杉謙信の家臣となります。
宿敵・上杉謙信との戦い
さて、南信濃を支配した信玄は北を目指して進軍します。
冬の寒さと、難攻不落の春日山城が築かれた土地、猛将・上杉謙信率いる上杉軍は、さすがの信玄も攻めあぐねます。
「川中島の戦い」と言われる上杉軍との衝突が幾度と繰り広げられますが、結果的にどちらも土地を手に入れられず、引き分けの結果となります。
方針転換・同盟を破棄して今川家への侵攻
少し年代が飛びますが、北の上杉家へは攻めあぐね、南東部では尾張の一大名にすぎなかった織田家当主・織田信長が海道一の弓取り(弓取りは武士という意味)で一大勢力であった今川家当主・今川義元を討ち取るという大事件が起きました。
これが「桶狭間の戦い」ですね。
この大事件は、当然ながら日の本全国に知れ渡り、近辺に位置していた武田家、北条家もすぐに知ることとなり、「今川家はもうダメだ。これからどうしようか?」と考えさせられることになります。
信玄は当時今川家の人質であり、今川義元亡き後に独立しようとする松平元康(後の徳川家康)と共同戦線を張って、今川家の領地を侵略し奪い取っていきます。
「さっきの同盟はどうしたの?」と思われますが、時代は強者が支配する時代。
落ち目と分かれば、奪い取られる前に奪い取るのが正義です。
当然、同盟は「もう知らない。弱った今が好機。その土地いただきます」となったわけですね。
まずは、南進して駿河への侵略を開始します。
この信玄の侵略を見ていた北条家ですが、信玄は北条家(当主は北条氏康)に対し、「侵略するから兵を貸して」と協力の書状を送りますが、北条氏康は逆に今川家(当主は今川氏真)に兵を送り込みます。
「これ以上武田家が大きくなっては隣接する北条家も危なくなる。今川家とは元は同盟国」という意図があったのでしょう。
結果的に、北条家とは敵対することになります。
更に領地を広げようと徳川家康と敵対
信玄は更なる領地の拡大、徳川家康も同じく領地の拡大。
同じ場所に攻め入っていた両者は、どちらも領地を拡大しようとするため敵対することになります。
当時の松平家はまだ独立を果たして間もないころ。
信玄率いる武田家には力が及ばないと知って、遠江(とおとうみ)から手を引きます。
徳川家が後退した今が絶好と見た信玄は、更に今川領である遠江を支配下に置き、西の三河へ侵略し、土地を切り取っていきます。
侵略の最中に信玄が病に倒れ一時撤退
しかし、侵攻中の最中に信玄が吐血してしまいます。
これには武田家は動揺し、このまま強硬侵攻して当主が亡くなっては一大事と三河の侵略を諦めて甲斐へと撤退を余儀なくされます。
三河への再侵攻をするも信玄病死
信玄は甲斐へ一時撤退して療養し、再び三河への侵攻を開始します。
しかし、再度病気が悪化し、再度療養のため甲斐へ撤退しようとするも、撤退途中の三河で病死します。
53歳で亡くなったとされています。
武田家のその後
信玄には兄弟に信廉など、息子には勝頼などがいました。
時代は飛びますが、息子の武田勝頼は知っている人も多いでしょう。
当時としては近代兵器であった鉄砲をうまく用いた「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍の前に敗北し、そこから衰退していきます。
通常学校で教えられる点では、結構省かれているので勘違いされていることが多いですが
①織田・徳川連合軍は約38000兵、対する武田軍は約15000兵と数的に武田軍が不利
鉄砲3段撃ちが特筆されていますが、そもそも数的不利が負けの要因として大きいともされています
武田家の動員兵が少ないのは北の上杉家に警戒するためや支配国の経済事情の悪化が理由に挙げられ、織田・徳川連合軍に動員できる兵数が少なかったとされています
②「長篠の戦い」と言われているものの、決戦地は設楽原(したらがはら)で行われ、ここで武田四天王を中心とした武田家重臣を数多く失いました
③以降、重臣を失い戦力を維持できず、四面楚歌となった武田家は甲斐中心へと攻め入られ滅亡します
決して長篠の戦いで滅んだわけではありません
長篠の戦いで戦力維持が困難となり、周囲に抵抗する手段を失った結果、甲斐中心に攻め入られる要因となって滅びました
西からは織田軍、南からは徳川軍、東からは北条軍が進軍を開始します(甲州征伐)。
まさに四面楚歌状態です。
なんとか抵抗するも、家臣の一部は敵へ降伏し、逃げ場所を塞がれてしまった勝頼は自害します。
これによって、甲斐地方で栄えた武田家は滅亡することとなります。
まとめ
いくら猛将でも病気には勝てず、一度衰退すれば周囲から好機と攻め込まれる、まさに戦国時代の象徴と言えます。
例え、信玄が健在であったとしても、上杉家や北条家、織田家、徳川家と敵対し続けるのは厳しかったと思います。
おそらくはどこかで織田・徳川連合軍に反攻に遭い、周囲に一斉に攻め込まれていたことに変わりはないと推測します。
次回は虚実入り混じる「真田十勇士」について書きたいと思います。
こちらも非常に興味深いものですよ。