本日は生々しい話を書こうと思います。
タイトル通り、自分は過去2回自殺を企てて失敗しています。
1度目は2015年10月、2度目は2018年の10月にしております。
1回目は腹に包丁を突き刺そうとして失敗、2度目は向精神薬の過剰摂取(いわゆるOD)です。
こう今ブログを書いていても未だに自殺したいという思いはあります。
そんな奴が御大層に何を言うんだと思うかもしれませんが、「自殺はやめておけ」と言っておきます。
自殺は想像以上に難しい
まず未遂経験者(実行して果たせなかった)が言いますが、人間簡単に死ねません。
拳銃で頭を打ちぬいたり、包丁で心臓を刺そうとしてもまず恐怖が出てきます。
1度目の自殺未遂で包丁を腹に刺そうとしても2時間も立ち尽くしていました。
人間は理性で生きている以上、そうそう恐怖には勝てません。
そして安易に死のうとした人が思いつく先が「何かに殺してもらおう」という道ですね。
飛び込み自殺が最たる例です。
迫りくる電車に飛び込めばもう後には引けないですし、まず助かる見込みはありません。
ただ、この自殺方法は個人的に「どのような理由があろうと一番最低な死に方」と断言します。
「死ぬときにすら周囲に迷惑かけるな」というのが矜持です。
たとえ自分に一切の非がなくても飛び込み自殺をしたら人間として侮蔑しますね。
一切の同情の余地もわきません。
飛び込み自殺で死ねずに助かった人を知っていますが、片腕切断など後遺症を残して生きて「なんて惨めなことをしたんだ」と言っていました。
なので、自分は飛び込みなどという最低の手段を取らずにひっそりと死のうとしました。
ちなみに「もう死んでやる」と周囲に喚く人ほど自殺はしないと思います。
いても10人に1人いるかどうかくらいですね。
自殺失敗は非常に惨めでつらい
そして1度目の実行失敗で会社を2週間ほど休んで強制的に自宅療養、2度目の失敗で精神病院に放り込まれました。
2度目の精神病院に放り込まれたときは気が狂いそうになりました。
まず通常の病院と違って、入院時に荷物の持ち込み制限がかけられます。
ハンガーなど自殺につながるものは一切持ち込めません。
病室は個室で、トイレも扉無し(首を挟んで自殺をさせないためと推測)、定期的に石、看護師が巡回(外から見える小さな扉あり)、外に出るには許可制(出れても1時間ごとに報告義務あり)と様々な制限がかけられます。
また自分が入院した精神病院は夜中に2時間程廊下を大声でうめきながら徘徊する人(なぜか看護士が注意しない)、言葉を失った人(失語症)など様々な患者がいました。
もはや制限がかけられまくって、寝ることしかできない病院に嫌気がさして、3日目に医師に「すぐに退院したい」と願い出て4日目に退院しました。
今振り返っても地獄と思っています。
このように自殺を失敗したら非常に惨めです。
会社に復帰しても奇異の目で見られますし、今でも月1回の産業医面談をしています。
死んでも死ねなくても一生の汚点になるというわけです。
それでもつらくて死にたいと思う人へ
まず言っておきますが、生きる死ぬの自由はその人にあります。
自分に他人の生き死にを決める権利はありませんし、こうして2度も失敗している人に尚更どうこう言う資格はないと思っています。
むしろ毎日「何が楽しくて生きているのだろう」とか「何のために生きているのか分からない」と思っています。
自殺したいという人の相談窓口が国にもありますが、自殺未遂者の自分から言わせれば「お前に自分の何が分かる?」と言いたいですね。
所詮は赤の他人、カウンセラーの資格を持っていようが他人に自分の苦痛は分かりません。
相談でどうこうなるなら毎年万単位の自殺者が出ませんよ。
では、そんなに死にたいならあっさりと死ねと言いたいところですが、そういう人には「とりあえず今日だけ生きよう」と思うようにすればいいと思います。
明日はどうなるか分かりませんし、明日になればまた考えればいいです。
人生何のために生きるのかは死ぬまで分からないと思っています。
生きるというのは目的を探し続けて、死ぬときになって初めてわかるとこだと個人的に思っています。
そういう意味では目的をもって生きている人は素晴らしいと思いますね。
自分には死ぬまで生きる目的は分からないと感じています。
とりあえず今日だけ生きて、明日は明日になってから考える。
その繰り返しでいいと思います。
年間ほぼ毎日「なんで生きているのだろう」と思うやつが考えた結果が、「とりあえず今日1日だけ生きる」という道です。
明日になれば腹も減って考えが変わるかもしれません。
安易に自殺しようとすれば、失敗して惨めな人生を送ることになりますよ。
2度も企てて、2度とも失敗した自分が言うのですから間違いありません。
楽しい日もあれば苦しい日もありますが、とりあえず1日だけ生きてみてください。