戦国時代と言えば、数々の有名部将を知っている人がいます。
しかし、一方であまり知られていない武将も数多く存在します。
「信長の野望」や「戦極姫」など戦国時代ゲームをやっていれば聞いたことがある武将もいるでしょうが、それでもなおマイナー、または難読だと思われる武将を紹介します。
難読武将は数多くいるので、どんどん追加していく予定です。
もし全員正しく読めたら、周りに誇っていいですよ。
いえ、むしろその知識の深さに誇るべきです。
できれば、誰に仕えたかくらいは押さえておきたいです。
可能なら何をしたかも知ってほしいですね。
【追記、修正履歴】
2024年6月15日:「やや難読」の項を追加
東北地方
東北地方は九州地方と並んで難読武将が多いです。
九戸政実
読み:くのへ まさざね
九戸といえば、八戸(はちのへ)などと同じく、現在の岩手県あたりに多い地名の1つです。
主君・南部家に対して跡継ぎなどの問題で反乱(九戸政実の乱)を起こし、数の差(敵兵数60000に対し、味方5000)もあってか、あえなく返り討ちに遭いました。
北信愛
読み:きた のぶちか
なんだか女性のような表記ですが、れっきとした男性武将です。
南部家家臣で、南部信直を補佐しました。
上記、九戸政実の乱にも参戦しています。
安東舜季・安東愛季
読み:あんどう きよすえ・あんどう ちかすえ
それぞれ親子です。
まあ初見では読めないですよね。
安藤愛季は晩年に苗字を「秋田」に改めていることから、秋田県の由来になったのかもしれません。
山本寺定長
読み:さんぽんじ さだなが
「やまもとでら」ではありません。
越後の上杉家に仕えた武将です。
上杉景虎(北条家の七男である「北条三郎」。上杉家の養子)に仕え、上杉謙信亡き後の跡継ぎを巡って「御館の乱(上杉景勝vs上杉景虎)」が起こった際に上杉景虎に味方し、結果的に上杉景虎は破れました。
五十公野信宗
読み:いじみの しんしゅう
地味に下の名前も「のぶむね」ではなく「しんしゅう」と読みます。
新発田重家
読み:しばた しげいえ
上記の五十公野氏と関係します。
元は「五十公野治長」と名乗っていましたが、後に改名して「新発田重家」と名乗りました。
いずれにしても越後(現在の新潟県)に縁のある武将です。
北条高広
読み:きたじょう たかひろ
「ほうじょう」ではないですよ。
さらに、「北条氏康」などの後北条家とは血縁関係など一切関係ありません。
最初は武田家と内通し上杉謙信と対立するも、降伏してその手腕を振るいました。
お家騒動の「御館の乱」では「上杉景虎(北条三郎)」に味方し破れました。
その後は武田家を頼り、武田勝頼に仕えました。
武田勝頼が亡くなった後は、織田信長配下部将の「滝川一益」に仕えました。
なかなか数多く主君を変えていますね。
乱世の時代には主君を転々と変えることは別段珍しいことではありませんが。
関東地方
菅谷政貞
読み:すげのや まささだ
苗字の読みは「すがや」ではありません。
戦国最弱と言われる「小田家」の重臣です。
幾度となく戦(小田城奪還戦)で敗れる「小田氏治」を見捨てることなく仕え、その菅谷一族の忠臣は徳川家康からも評されたほどです。
大掾清幹
読み:だいじょう きよもと
自分は最初「おおぶち」と読んでいました、お恥ずかしい…
大掾家最後の当主です。
小田家や後北条家(北条氏康などの北条家)と争っていました。
最期は佐竹家に敗れ自刃しました。
垪和氏続
読み:はが うじつぐ
お恥ずかしながら、最初は「へいわ」と読んでおりました。
「塀」と「垪」、似てるじゃないですか(全然違う漢字ですが)。
後北条家の家臣です。
東海地方
飯尾乗連
読み:いのお のりつら
今川家の家臣です。
あの戦国時代を大きく動かした一大イベント「桶狭間の戦い」で戦死したとも、何とか生き延びたとも言われている武将です。
言っておきますが、芸人の「ずん飯尾(いいお)」の「いいお」ではありません。
甲信地方
飯富虎昌
読み:おぶ とらまさ
武田家の重臣です。
兄弟あるいは子として(家系は明らかになっていません)あの武田四天王最強と称される「山県昌景」がいます。
北陸地方
朝倉景鏡
読み:あさくら かげあきら
北陸地方で勢力を広げた朝倉家の一門です。
逸話で真偽は不明ですが、かなり陰湿な人物だったようで、家中では口論やさぼり癖が絶えなかったとされています。
印牧能信
読み:かねまき よしのぶ
「印牧」という苗字は今も存在します。
越前国(今の福井県辺り)の武将で、朝倉家家臣として「一乗谷の戦い」で織田信長に敗れます。
捕縛されたのち、信長はその名を惜しんで許そうとするも、武士の意地で自刃したとされています。
氏家卜全
読み:うじいえ ぼくぜん
これは簡単に読めるかもしれませんね。
「塚原卜伝」を知っていれば簡単です。
ちょっと珍しいということで入れておきました。
「卜全」は出家後の名前で、出家前は「直元」を名乗っていました。
美濃で勢力を誇った部将で、西美濃三人衆の1人であり、最盛期には美濃の3分の1を支配するほどでした。
近畿地方
阿閉貞征
読み:あつじ さだゆき
「本能寺の変」は小学生でも知っていますよね。
あの明智光秀が織田信長に謀反を起こした事件です(天正壬午の乱の1つ)。
その明智光秀に加担した武将の1人です。
その後、秀吉軍と交戦し、捕縛されたのち一族全て処刑されてしまいました。
(処刑方法は磔刑との文献あり)
他にも、あの7度も君主を変えたことと築城の名手で有名な「藤堂高虎」が主君として仕えていた武将でもあります。
(有名な武将だけでも浅井→豊臣→徳川と点々!)
その割にはあまり知名度が低いのが不憫です。
海北綱親
読み:かいほう つなちか
浅井家家臣です。
浅井家重臣を務め、その知勇の実力は後の天下人「羽柴秀吉」からも恐れられたとされています。
下間頼廉
読み:しもつま らいれん
本願寺の僧侶です。
本願寺と言えば織田信長をはじめ数多くの大名がその勢力に苦戦させられました。
ゲームでは大体能力値が高く設定されており、「スーパー坊主」とも呼ばれています。
淡河定範
読み:おうご さだのり
「たんが」や「あわかわ」とは読みません。
現在の兵庫県神戸市北区の一地区に「淡河町(おうごちょう)」があります。
その後は敗れて自刃したとも、生き延びたとも消息不明とされています。
鹿伏兎宗心
読み:かぶと そうしん
「鹿伏兎定秀」とも名乗っていました。
姉川の戦いで浅井家に味方した武将です。
「鹿伏兎城」という城も伊勢(現在の三重県)にありましたし、現在も愛知県に鹿伏兎町が存在します。
雲林院祐基
読み:うじい すけもと
最初は対立状態にあるも信長に臣従し、後に小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉に味方しました。
山科言継
読み:やましな ときつぐ
名前は「ことつぐ」ではありません(初見の自分はそう読んでしまいました)。
正確には武将(武士)ではなく、公家の人です。
公家の身分であることから数多くの戦国大名と交流があり、生前には従二位、権大納言の官位をいただき、死後に贈従一位というトップクラスの官位を与えられました。
ちなみに、与えられたのは死没後300年以上も後の大正4年(1915年)です。
名目は「朝廷の存続貢献の功績」を讃えてのものでした。
※正一位が関白などの名誉職に就いた人、日本の政治に多大な貢献をもたらした人などが与えられるもので、その下が従一位です。
つまりは関白などに次いで名誉な位で、事実上公家の中でもトップと言えるほどです。
中国地方
明石全登
読み:あかし てるずみ
あまりに読めなさすぎて、逆に有名な武将かもしれません。
そもそもこの武将、「名前がいくつもあってどれが正しいのかもわかっていません」
宇喜多家の家臣(宇喜多家と言えば五大老の宇喜多直家が有名ですよね)で、キリシタン大名で有名です。
下の名前は
・てるずみ
・たけのり
・ぜんとう(ド直球の読み方)
・じゅすと(おそらく洗礼名から?)
と文献であるそうです。
陶晴賢
読み:すえ はるかた
幼少時は「陶隆房」と名乗っていました。
下剋上武将の一例に挙がる武将です。
名門大内家の当主である主君・大内義隆を討ちました。
しかし、位置したところが、現在の山口県・広島県の境あたりで、すぐ右隣には毛利家の謀神・「毛利元就」がいたことから、毛利家に敗れて自害することになりました。
四国地方
忽那通著
読み:くつな みちあき
大友家や織田家など周辺大国の戦争に奮戦しました。
最後は長宗我部家と内通した武将の鎮圧のために出陣したものの敗れて戦死しました。
土井方玄
読み:どい まさつね
伊予の河野家家臣です。
長宗我部家と和睦を結ぼうとするも騙し討ちにあって死亡するという最期でした。
九州地方
九州地方はとにかく難読武将が多いです。
聞いたことがない、そもそも読めない武将が多いはずです。
奴留湯融泉
読み:ぬるゆ ゆうせん
勘がいい人なら「ぬ」「る」「ゆ」とそれぞれ読んで読めたかもしれませんが、まず無理でしょう。
大友家に仕えた武将で、現在の福岡県周辺にまだこの苗字の人がいるそうですよ。
別の書き方で「怒留湯」とも書いて同じ読みをするそうです。
戸次鑑連
読み:べっき あきつら
これは読める人、もとい知っている人が多い武将でしょう。
「立花道雪」その人です。
立花道雪は知っている人は多いですが、その元の名を知る人は意外に少ないです。
ちなみに、「戸次」は今も有名人でいますし、「べっき」と「とつぎ」の2種類の読み方があります。
吉弘鎮理
読み:よしひろ しげまさ
これも上記武将とつながりがある武将です。
「高橋紹運」その人です。
「剛勇鎮西一」と恐れられた「立花宗茂」の父(立花道雪は養父)です。
ちなみに、「紹運」は「しょううん」ではなく、「じょううん」と読みます。
宇礼志野直通
読み:うれしの なおみち
「嬉野温泉」はご存じでしょうか?
佐賀県にある有名な温泉です。
その由来ともなったのがこの一族です。
「宇礼志野」一族は肥前国の武将で、龍造寺隆信から「嬉野」に改名するように進められて「嬉野」と苗字を変えました。
それが今でも地名として残っています。
神代勝利
読み:くましろ かつとし
格好いい苗字に、縁起のいい名前です。
「かみしろ」ではなく「くましろ」と読みます。
西は肥前の熊こと「龍造寺家」と、東は大大名の「大友家」に挟まれた、現在の佐賀県あたりに位置する武将である「少弐家」の家臣です。
波多親
読み:はた ちかし
肥前の武将です。
肥前と言えば「肥前の熊」こと「龍造寺隆信」とも争いましたが、何度も和睦と対立を繰り返したようです。
その後は滅亡することなく、豊臣政権下に組み込まれました。
日高喜
読み:ひだか このむ
なぜかWikipediaのページすらも存在しないドマイナー武将です。
信長の野望には登場しています。
肥前国(現在の長崎県)の波多家の家臣ですが、波多家には宗家と分家が存在するようで、分家に味方して宗家の波多親の攻撃を受けましたが、同じ肥前の武将である松浦氏の助力も得て撃退したとのことです。
相良義陽
読み:さがら よしひ
下の名前を読めない人が多いのではないでしょうか。
相良家の当主で、後に島津義久を主君として使えました。
阿蘇家の「甲斐宗運」とは親交が深く、相良義陽が戦死した際には、島津豊久、甲斐宗運ともに非常に落胆し、甲斐宗運に至っては「阿蘇家の命運ももはやこれまで」と言わしめたほどです。
城親冬
読み:じょう ちかふゆ
ネットで調べてもこれといって何か大きなことを成した武将ではありませんが、「隈本城(熊本城)」に関する武将です。
実際に熊本城に行った際にはちゃんと熊本城回復に努めたと展示パネルがありました。
伊集院忠倉
読み:いじゅういん ただあお
下の名前は「ただくら」ではありません。
苗字は読めても、下の名前が読めないでしょう。
島津家家臣で、大隅国(現在の鹿児島県東部)の肝付家を破っています。
頴娃久音
読み:えい ひさぶえ
「頴娃」の苗字は鹿児島県の人なら知っている人も多いでしょうが、それ以外は難読地名に挙げられます。
苗字も名前もとにかく読めません。
肝付家の家臣です。
新納忠元
読み:にいろ ただもと
島津家家臣です。
その武勇は周辺国では有名で、秀吉の九州征伐の際も徹底抗戦をしたほどです。
島津家でも厚遇されていたそうです。
祁答院良重
読み:けどういん よししげ
鹿児島県民なら読めるかもしれません。
今なお「祁答院町」が残っています。
薩摩国で島津家と争った一族です。
禰寝重張
読み:ねじめ しげひら
元は肝付家家臣でしたが、和睦の末に島津家家臣になりました。
関ヶ原の戦いにも参戦し、退却の際に本隊とはぐれ、敵軍に捕縛されました。
しかし、後に釈放されました。
番外編
喰代
読み:ほおじろ
実は武将ではありませんが、忍者の一族が住んでいたことで有名です。
ここは今の「三重県伊賀」に位置します。
伊賀と言えば「伊賀忍者」ですよね。
栴岳承芳
読み:せんがくしょうほう
「誰?」と思った人がほとんどだと思います。
この人物は「今川義元」その人です。
今川家当主になる前の仏門に入っていた時の名前です。
あの黒衣の宰相こと「太原雪斎」とともに「妙心寺」でいろいろ勉強していたと残されています。
今川家のお家騒動「花倉の乱」で太原雪斎とともに戦い、名を今川義元と改め、太原雪斎も敏腕右腕として義元を補佐しました。
太原雪斎が亡くなった後に「桶狭間の戦い」が起きますが、もし太原雪斎が生きていたら桶狭間の戦いは起こらず、織田家は今川家に併合されていた可能性が高いとも言われています。
正親町天皇
読み:おうぎまちてんのう
書いて字の如く、武将ではなく天皇です。
1500年代の戦国時代の天皇です(在位期間は1557年~1586年と、当時としてはかなり長めです)。
「正親」と書いてなぜ「おうぎ」と読むのか…
毛利元就や本願寺、織田信長や豊臣秀吉など数多くの戦国大名と関係がありました。
やや難読武将
以下の武将は大体下の名前がやや読みにくいです。
苗字は簡単に読めるのですがね…
金上盛備
読み:かながみ もりはる
陸奥国の南で勢力を築いた蘆名家の家臣です。
またしてもかもしれませんが、上杉家のお家騒動「御館の乱」で上杉景虎(北条三郎)に味方しています(主君・蘆名盛氏の方針のため)。
最期は「摺上原(すりあげはら)の戦い」で伊達家重臣の「片倉景綱」の部隊に討ち取られました。
斯波銓高
読み:しば あきたか
横田高松
読み:よこた たかとし
「たかまつ」と読んでしまったあなた、間違いです。
自分も間違えて読んでしまいました。
武田家の家臣で、武田家が文字通り煮え湯を飲まされた村上義清軍との戦いの1つ「砥石崩れ」で殿(しんがり。撤退時の後方部隊)を引き受け、猛攻を見事に凌ぎ、自分は討ち取られたものの、武田軍の撤退は見事成功させた武将です。
その武勇は主君・武田信玄からも称賛され、家中に武将の見本として説いたほどだったそうです。
三枝昌貞
読み:さいぐさ まささだ
「さえぐさ」と読んだ人、惜しいですね。
普通は「さえぐさ」と読むのが現代の普通でしょうが、この人は「さいぐさ」と読みます。
武田家でも特に武勇に秀でた「武田二十四名臣」の1人です。
マイナー武将
Wikipediaのページすらないマイナー武将を紹介します。
壬生川通国
読み:みぶかわ みちくに
読み自体は簡単でしょう。
伊予・河野家の家臣で鷺ノ森城城主です。