唐突なクイズです!
貴方はいったいどれだけ正確に歴史を把握しているでしょうか?
現代(たった数十年前)のことでも意外と間違って認識しているものがあると思いますよ。
今回は自分が学んできた、そして誤って認識していたものを含めて選りすぐりの問題を出題します。
全問正解できたなら、自信と誇りをもっていいと思います。
でも、よっぽどの人でない限り全問正解はできないと思います。
随時追記していきますので、是非しばしの間正しい歴史を学んでいただければと思います。
【追記、修正履歴】
2024年2月11日:第1問~第7問
2024年2月12日:第8問~第15問追記
2024年2月15日:第16問~第19問追記
2024年2月18日:第20問追記
- 第1問:「ベルリンの壁」の崩壊は昭和?平成?(難易度:★★★☆☆)
- 第2問:普通選挙法と治安維持法、どちらが先に成立した?(難易度:★★★☆☆)
- 第3問:日本の元号「慶応」はいつまで?(難易度:★☆☆☆☆)
- 第4問:「昭和」はどれくらいの期間続いた?(難易度:★★☆☆☆)
- 第5問:第2次世界大戦が完全終結したのは何年何月何日?(難易度:★☆☆☆☆)
- 第6問:「前九年の役」と「後三年の役」のそれぞれの期間は?(難易度:★☆☆☆☆)
- 第7問:「文禄の役」と「慶長の役」のそれぞれの期間は?(難易度:★☆☆☆☆)
- 第8問:合戦並び替えクイズ(難易度:★★★★★)
- 第9問:元号でよく使われている漢字の並び替え(難易度:★★★★☆)
- 第10問:処遇選択クイズ(難易度:★☆☆☆☆)
- 第11問:太平洋戦争並び替えクイズ(難易度:★★★★☆)
- 第12問:戦国武将の異名(難易度:★★☆☆☆)
- 第13問:会社の経営破綻(難易度:★★☆☆☆)
- 第14問:三好三人衆の官位について(難易度:★★★★☆)
- 第15問:長島一向一揆について(難易度:★★☆☆☆)
- 第16問:戦国武将・支倉常長について(難易度:★★★☆☆)
- 第17問:旧ユーゴスラビアの分裂国で正しくないものは?(難易度:★☆☆☆☆)
- 第18問:天保の大飢饉で犠牲者0の藩は?(難易度:★★★★☆)
- 第19問:天下五剣について(難易度:★★★★☆)
- 第20問:スターリンの本名は?(難易度:★★☆☆☆)
- まとめ
第1問:「ベルリンの壁」の崩壊は昭和?平成?(難易度:★★★☆☆)
まずは第1問。
早速現代、しかもたった数十年前の出来事の問題です。
東西ドイツの分裂の象徴とされた「ベルリンの壁」が崩壊したのは、昭和の時代か、もしくは平成の時代か?
正解はどちらでしょう?
正解と解説
正解は「平成」です。
ベルリンの壁が崩壊したのは「1989年11月9日」です。
昭和は昭和64年1月7日=1989年1月7日までです。
つまり、ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日は「平成元年11月9日」であり「平成」が正解です。
第2問:普通選挙法と治安維持法、どちらが先に成立した?(難易度:★★★☆☆)
第2問はこちらです。
よく「普通選挙法と治安維持法は同時に成立した」と書かれていることが多いですが、「同時に法律が成立わけではありません」。
どちらかが先に成立され、後からもう一方が成立されました。
さて、どちらが先に成立されたでしょうか。
正解と解説
正解は「治安維持法」です。
治安維持法は「1925年(大正14年)3月19日」に成立しました。
公布は同年4月22日、施行は同年5月12日です。
普通選挙法は「1925年3月29日」に成立しました。
公布は同年5月5日、施行は第16回衆議院議員総選挙からです。
実に10日違いですが、先に成立したのは「治安維持法」になります。
ただし、より正確にいうとこの普通選挙法は1900年(明治33年)に制定された衆議院議員選挙法を全面改正して制定されたものであり、そういう意味では「普通選挙法」が先になります。
ただ、全面改正=ほぼ新規の法令(実際に法令番号も新規採番されています。大正14年法律第47号)なので、「治安維持法(大正14年法律第46号)が先に成立」は正しいです。
もっと踏み込むと、「第50回帝国議会で同時提出され、先に治安維持法が成立、後日に普通選挙法が成立」という表現が正しいですね。
第3問:日本の元号「慶応」はいつまで?(難易度:★☆☆☆☆)
小学生の歴史でも習う明治維新。
その江戸時代最後の元号が「慶応」です。
その後は明治、大正、昭和と続きます。
その「慶応」は一体何年まであったでしょうか?
正解と解説
正解は「4年」です。
「1865年4月7日~1868年9月8日(ユリウス暦)」が慶応の年間です。
(余談ですが、日本でグレゴリオ暦が採用されたのは1873年(明治6年)です)
中には「3年」と思った人も多いのではないでしょうか。
これが勘違いされているのは「王政復古の大号令が1867年(慶応3年)12月9日」だからでしょう。
江戸幕府が廃止されたのは王政復古の大号令によるものであり、明治政府の成立も1867年です。
天皇が崩御することで改元が決まる「一世一元の制」が成立したのは「1868年10月23日」のことです。
(またまた余談ですが、現在の元号「令和」は、2017年に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づき、現在の上皇・明仁から今上天皇(「今上」は「現在」という意味です)への譲位により、2019年5月1日から「令和」の元号が制定されて、一世一元が継続されています)
そのため、「一世一元の制」により「明治」が成立するまでの1865年~1868年の4年間が「慶応」となります。
第4問:「昭和」はどれくらいの期間続いた?(難易度:★★☆☆☆)
さて、第4問も元号に関する問題です。
現在生きている人で最も多いのは「昭和生まれ」の人です。
さて、「昭和はいつ(西暦何年)まで?」と問われれば「1989年まで」とほとんどの人は答えられるでしょう。
今回の問題はそこではありません。
肝心の問題は「昭和は何年間(続いた年数)続いたか?」です。
正解と解説
正解は「62年」です。
より正確な日数も数えると、「62年と14日」です。
確かに元号としては64年までありますが、期間で問われると「64年」ではありません。
昭和の期間は「1926年12月25日~1989年1月7日」で「昭和元年~昭和64年」となります。
しかし、昭和元年は12月25日~12月31日のたった7日間、昭和64年も1月1日~1月7日の同じく7日間しかありません。
従って、年数でいうと「62年」がフルで昭和だった年間になります。
第5問:第2次世界大戦が完全終結したのは何年何月何日?(難易度:★☆☆☆☆)
人類史上最大の戦争であり、最大の戦死者を出した第2次世界大戦。
戦争史上、初めて原子爆弾が使用され、唯一の戦争被爆国となった日本。
その第2次世界大戦について問題です。
第2次世界大戦は1939年9月1日、当時のドイツがポーランドに侵攻したことがきっかけでヨーロッパ全土に戦火は拡大し、後の日本が真珠湾攻撃を始めたことで世界中を巻き込むことになりました。
さて、戦争が始まったのは上記の通り、「1939年9月1日」です。
では、この第2次世界大戦が終結したのはいつでしょうか?
西暦だけでなく、日付まで含めて答えてください。
正解と解説
正解は「1945年8月15日、または1945年9月2日」です。
意地が悪いかもしれませんが、答えは2つあります。
なぜ2つあるかというと「何をもって終結と判断するかで意見が分かれるから」です。
ご存知のとおり、日本が定める終戦記念日は「8月15日」です。
これは当時の帝国政府が連合国が提示した「ポツダム宣言」を受諾した日が8月14日、翌日の8月15日に当時の昭和天皇が玉音放送にて国民に戦争敗北を知らしめた日です。
ただし、これは「最後まで連合国に対し枢軸国中心として戦っていた帝国軍が戦闘を停止した日」であり、この時点ではまだ正式に降伏文書に署名していません。
つまりは、「実質的に組織として戦闘と放棄した日」となります。
約2週間後の9月2日、アメリカ戦艦「ミズーリー」の甲板上で帝国政府は正式に「降伏文書に署名」することにより、戦争は完全終結となりました。
ではこの8月16日から9月1日の間はどうなっていたのでしょうか?
実はこの間も戦闘はありました。
既に1945年時点では大日本帝国軍は戦力をほぼ失くし、本土まで攻められていました。
東京大空襲や大阪大空襲をはじめとして、戦火は海外ではなく、まさに本土での攻防戦になっていました。
ポツダム宣言受諾後、戦闘継続を放棄した後も軍は所々で連合軍と戦っていました。
一部になりますが、現在の北方領土でソ連軍と日本軍が戦闘を継続していました。
従って、ポツダム宣言受諾後も実質的には戦闘は続いており、正式に降伏文書に調印した日が戦争終結日ともいえるのです。
なので、どちらが正しいとも言えないのが事実です。
第6問:「前九年の役」と「後三年の役」のそれぞれの期間は?(難易度:★☆☆☆☆)
急に易しくなったかもしれない問題です。
中学受験をした身では、この問題は小学生で習うと言えるかもしれません。
ただ、古い出来事なので意外と正しく答えられる人は少ないと思っています。
今までの問題と違って、急に時代は遡り「平安時代」からの問題です。
時は平安時代末期。
武士が台頭し始めて天皇をはじめとした貴族の勢力が衰えていた時代です。
地理的に遠いのもあり朝廷の政治が行き届かず、当時の東北地方は荒れた様相でした。
一応は朝廷から統治を任せるために派遣された者(安倍氏)がいたのですが、次第に朝廷に反攻するようになります。
その反抗勢力を抑え込むために起こったのが「前九年の役」です。
対して、「後三年の役」は上記「前九年の役」に端を発したものです。
前九年の役の功労者である「清原氏」と、後の鎌倉幕府を作った「源氏」の合戦です。
詳細を書くと長くなるので一言で書きますが、後三年の役の原因は「お家騒動(内乱)」です。
上記の清原氏の内部分裂騒動が原因ということです。
さて問題は、その「前九年の役」と「後三年の役」の期間はそれぞれいつからいつまでだったかです。
西暦で期間をお答えください。
正解と解説
正解は「前九年の役」が「1051年~1062年」です。
「後三年の役」が「1083年~1087年」です。
まあ、何かしら2つの間に約21年もの期間があります。
この間は詳細はよく分かっていないらしいですが、清原氏が東北地方を治めていたようです。
肝心なのは「後三年の役」の内容です。
「前九年の役」は朝廷が安倍氏討伐の名目で命令したので恩賞が出たのですが、「後三年の役」では朝廷が命令したわけではなく勝手に戦を始めたとのことで、源氏側に恩賞が出ませんでした。
結局、源氏側は私財をなげうって武士に恩賞を出し、結果として関東周辺の武士に名声を上げることになりました。
第7問:「文禄の役」と「慶長の役」のそれぞれの期間は?(難易度:★☆☆☆☆)
またまた時代は飛び、時は群雄割拠の戦国の世が豊臣秀吉によって天下統一された世の中。
日本を統一した豊臣政権は朝鮮半島へと侵攻を開始します。
相手は時の中国を治める「明」。
朝鮮半島ではそうそうたる戦が行われました。
日本からは、宇喜多秀家や加藤清正、鍋島直茂、島津義弘、福島正則、長曾我部元親、小早川隆景、小早川秀秋、立花宗茂、細川忠興、九鬼嘉隆、加藤嘉明など歴史上の有名人物が何人も参戦しています。
問題は、それぞれの役に対して西暦で期間をお答えください。
こちらも有名なので簡単ではないでしょうか。
正解と解説
正解は「文禄の役」が「1592年~1593年」です。
「慶長の役」が「1597年~1598年」です。
「文禄の役」ではお互いの休戦協定で日本軍が朝鮮半島に拠点を置くことができたものの、「慶長の役」では豊臣秀吉の急死に伴い、豊臣秀頼が政権を継いだものの、国内で政情不安が出てきたことから戦争継続は困難と判断し、日本軍は朝鮮半島から完全撤退となりました。
第8問:合戦並び替えクイズ(難易度:★★★★★)
さて、次はかなりマイナー問題です。
はっきり申しまして「え?初めて聞くんだけど?」という声も聞こえてきそうです。
戦国時代の問題です。
以下の戦いについて、起こったのが古い順に並び変えてください。
①第4次川中島の戦い
②二俣城の戦い
⑤高遠合戦
⑥砥石崩れ
⑦上田原の戦い
ヒントになるか分かりませんが、地理が分かれば意外と正解を出せるかもしれません。
正解と解説
正解は
⑤高遠合戦(1544年~1545年)
⑦上田原の戦い(1548年)
⑥砥石崩れ(1550年)
①第4次川中島の戦い(1561年)
③三増峠の戦い(1569年)
②二俣城の戦い(1572年)
④三方ヶ原の戦い(1573年)
です。
川中島の戦いで察した人も多いでしょうが、全て「武田信玄(武田晴信)」に関わる戦いです。
⑤高遠合戦は信濃国の高遠氏との戦いです。
高遠城というそのまんまの名前がある城を舞台に戦いました。
高遠城は当時の甲斐国からすぐ西側にあるところだったので、甲斐から出た武田信玄の序盤の侵攻地です。
⑦上田原の戦いは、武田信玄因縁の相手の一人「村上義清」との合戦です。
名前の通り、現在の長野県上田市を舞台にした戦いです。
この戦いで村上軍に損害を与えたものの、武田家は甘利虎泰と板垣信方という2人の重臣を失うことになりました。
損害状況から武田家敗北ともされています。
⑥砥石崩れは武田信玄にとって生涯屈指の大敗です。
相手はまたしても村上義清です。
砥石城を舞台にした戦いなのですが、城の名前の通り「砥石のように急峻な山城」に村上義清は詰めていました。
この城を攻略するために武田信玄は7000もの兵を動員しました。
対して、砥石城に配置された兵は500とされており、兵数では圧倒的に武田家有利でした。
しかし、その城は上記の通り攻めにくく、先の戦いで村上方の兵の士気は高い状況でした。
結果的に村上方は大した損耗がなく、一方で武田側は横田高松(よこたたかとし)討ち死に、1000人もの兵を失うという大惨敗でした。
①第4次川中島の戦いは5回に及ぶ川中島の戦いの中で最も凄惨な戦いです。
主戦場が八幡原だったことから「八幡原の戦い」とも言われます。
かの上杉謙信(この当時は上杉政虎と名乗っていました)が武田信玄に対して単騎直接攻撃を仕掛け、武田信玄はその刀を軍配で凌いだと言われる合戦です。
③三増峠の戦いは北条軍を相手に戦ったものです。
上記川中島の戦いを経て、北上侵攻から南方侵攻へと方針転換します。
1569年となれば、既に今川家は今川義元が織田信長に桶狭間の戦い(1560年)で討ち取られています。
今川家は今川氏真が継いでいますが、今川家の弱体化は進んでいる状況でした。
かねてより、武田家、北条家、今川家は三国で同盟を結んでいましたが、上杉家との戦いは上記で一旦の決着、西側は飛騨という山の多い場所で攻めにくく利が少ない、残るは東か南となったわけですが、そこで今川家の弱体化という事実。
武田家は真っ先に南方侵攻へとなったわけですね。
当然、上記の三国同盟は破棄され、武田家は今川家だけでなく、北条家とも敵対するわけになりました。
そんな三増峠の戦いは北条家との戦いの1つです。
現在の神奈川県愛甲郡愛川町の三増で起こったものです。
この戦いでは序盤こそ武田家は苦戦したものの、武田四天王の一人である山県昌景が別働隊で奇襲を仕掛けることで戦況を覆しました。
②二俣城の戦いは南方進軍を続ける武田家が誰もが知る後の江戸幕府初代将軍「徳川家康」と戦ったものです。
場所は遠江(現在の静岡県)の北部にある二俣城で起こりました。
二俣城は攻め手となる場所が急な坂道になっており、正攻法では中々落とせずにいました。
そこで武田軍は城の水源を絶つことを決めました。
この戦法が功を奏し、水源を絶たれた徳川軍は戦闘続行が困難と判断し、開城することになりました。
この戦いで、武田家は城を確保するだけではなく、遠江の国人が武田家優勢とみるや武田家に付くことになりました。
ただし、こちらは織田信長も援軍を出して、武田家vs徳川・織田連合軍の構図となります。
場所は同じく遠江国の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市)になります。
結果としては徳川家康の判断の誤りから武田軍の圧勝となりました。
万全の状態で布陣していた武田家に徳川連合軍が突っ込んだ形です。
ここで多数の戦死者を出し、徳川家康自身も命の危険にさらされました。
結果として本田忠勝などの家臣に守られて生き延びることができました。
第9問:元号でよく使われている漢字の並び替え(難易度:★★★★☆)
第9問はまたまた「元号」に関するクイズです。
次に挙げる漢字で、「元号で用いられている回数が多い順」に並び替えてください。
①安
②治
③平
④正
⑤応
⑥元
さあ、どの漢字が多く使われているのでしょうか。
正解と解説
正解は
⑥元(27回)
②治(21回)
⑤応(20回)
④正(19回)
①安(17回)
③平(12回)
です。
今はともかくとして、昔はとにかく太平の世の中を願って付けることが多く、「永」や「天」、「治」、「長」、「和」などの漢字がよく用いられました。
また、天皇が代替わりせずとも不吉なことが起きた後に元号改正もたびたびありました。
天安(857年~859年)
天元(978年~983年)
永久(1113年~1118年)
天治(1124年~1126年)
正治(1190年~1199年)
康正(1455年~1457年)
寛正(1461年~1466年)
文正(1466年~1467年)
※(1455年~1467年の12年の間、実に4回中3回も「正」が使われています)
明和(1764年~1772年)
安永(1772年~1781年)
天明(1781年~1789年)
元治(1864年~1865年)
一世一元の制になるまで、ざっと代表的なものを挙げるだけでもこんなにあります。
第10問:処遇選択クイズ(難易度:★☆☆☆☆)
第10問は選択クイズです。
戦国時代~江戸時代に起こらわれた次の処遇に関して、最も重い処遇(=重罰)はどれでしょうか。
①減封
②改易
③移封
④転封
正解と解説
正解は「②改易」です。
改易(かいえき)は一言で言うと「土地の完全取り上げ」です。
まさにお家取り潰しともいえるでしょう。
今で例えるなら、土地も財産も、さらには身分(武士)すらも全部没収されることになります。
更に、単純に土地の取り上げだけでなく、蟄居(今の禁錮刑に相当します)や遠流などの刑罰も同時に命じられることもあり、大名にとってはまさに最大級の刑罰でしょう。
対して、①減封(げんぽう)は「土地を減らすこと」なので、改易のように全部没収ではありません。
③移封(いほう)と④転封(てんぽう)は同じ意味です。
どちらも土地の入れ替えであり、増える(加増)こともあれば減る(=減封)こともあります。
人事で例えるなら、減封が「左遷」、移封が「異動(昇格も降格も含む)」ですね。
このことから処遇が重い順に
②改易>①減封≧③移封=④転封
となります。
第11問:太平洋戦争並び替えクイズ(難易度:★★★★☆)
第11問は太平洋戦争からの並び替えクイズです。
次に挙げる戦いは全て太平洋戦争における「ソロモン諸島の戦い」の一部です。
「戦いが起こった順に古い順」に並び変えてください。
②ラバウル空襲
③ろ号作戦
⑤ルンガ沖夜戦
⑥ケ号作戦
「艦これ」などの艦隊ゲームをやっていた人で詳しく調べた人なら分かるかもしれませんが、そうでない人からすると分からないかと思います。
あ、ちなみに自分はすでに引退済みですが「艦これガチ勢」でした。
全て最大難易度である甲作戦で全海域をクリア、戦果でも聯合入りを複数回、基本毎月最低でも2群入りするほどやり込んでいました。
もちろん、これら作戦も全てイベントの度に調べていました。
正解と解説
正解は
①ガダルカナル島の戦い(1942年8月7日~1943年2月7日)
⑤ルンガ沖夜戦(1942年11月30日夜)
⑥ケ号作戦(1943年2月1日~1943年2月7日)
④コロンバンガラ島沖海戦(1943年7月12日~1943年7月13日)
②ラバウル空襲(1943年10月12日~1943年11月11日)
③ろ号作戦(1943年10月28日~1943年11月12日)
ガダルカナル島の戦いでは、実に7か月もの間南方で激戦を繰り広げられました。
真珠湾攻撃で大戦果を挙げたものの、1942年6月のミッドウェー海戦で大日本帝国海軍の主力航空母艦である第一航空戦隊(一航戦)の「赤城」と「加賀」および第二航空戦隊(二航戦)の翔鶴型航空母艦「蒼龍」と「飛龍」、更には最上型重巡洋艦の「三隈」も失う(沈没)大惨敗を喫していて、大本営では「このままだとまずい」という意見も出ていました。
ルンガ沖夜戦では海戦そのものは日本側の勝利で、損害も日本側は駆逐艦「高波」のみ沈没に対して、連合国側は重巡1隻沈没、重巡3隻大破というものでした。
しかし日本側の作戦目的は南方で繰り広げられていたガダルカナル島の戦いの戦力回復や防衛増強を図る「輸送作戦」であり、この目的は阻止され達成できなかったことから戦略的敗北という結果に終わりました。
ケ号作戦はガダルカナル島からの撤退作戦です。
「ケ号」の「ケ」は「捲土重来(けんどちょうらい)」の頭文字を由来としています。
上記の通り、ガダルカナル島での戦いはまともに輸送補給ができず、長引く戦いで戦況は悪くなる一方でした。
さすがに7ヶ月経ってまともな戦果を挙げられず、人員も物資も底をつきかけていた状況を見て大本営は撤退(表現は「転進」とされていました)を決めました。
先のルンガ沖夜戦で輸送作戦失敗をしていたため、大本営はこの撤退作戦が成功するか不安だったようですが、結果としては駆逐艦22隻を投入し、第1次作戦で駆逐艦「巻雲」が沈没(機雷により損傷→自沈処分)、第2次作戦で駆逐艦「舞風」中波、第3次作戦で駆逐艦「磯風」中波と大きな損害を出すことなく(大本営は動員戦力の1/4は沈没するだろうとの見通しを立てていたようです)、作戦は成功に終わりました。
コロンバンガラ島沖海戦はガダルカナル島の戦いから撤退した後、ニュージョージア島へ兵站を輸送する作戦で起こった海戦です。
結果として、第二水雷戦隊(二水戦)司令部である軽巡洋艦「神通」は敵の魚雷攻撃を受けて大爆発沈没、司令部はほぼ全滅となりました。
しかし、軽巡洋艦「神通」の沈没と引き換えに海戦には勝利、輸送作戦も成功しました。
ちなみに、「幸運の女神が付いている」ともっぱら海軍内で噂されていた駆逐艦「雪風」はここでも参戦し、しっかり役目を果たしています。
ラバウル空襲は文字通り、ビスマルク諸島ニューブリテン島の北東に位置するラバウルで繰り広げられた戦いです。
ラバウルは前年1942年でも戦いを繰り広げています。
ここには大規模な飛行場と泊地があったため、拠点にうってつけということで日本軍が1942年に制圧しました。
しかし、その後は上記の通り戦線は徐々に北上へと押されていきます。
一度は手にしたラバウルもアメリカ軍を中心に攻撃され、大きな被害を受けました。
ここでアメリカ軍ではレキシントン級航空母艦「Saratoga」が参戦しています。
なお、太平洋戦争最強の空母と呼ばれたヨークタウン級航空母艦「Enterprise」はこの時オーバーホールを受けていてこのラバウル空襲には参戦していません。
ろ号作戦は度重なる敗戦から攻撃から守備へと転換したころに起こった戦いです。
舞台は上記と同じくラバウル周辺で起きました。
徐々に拠点を削られ、日本軍は防戦と後退を強いられていました。
ろ号作戦では上陸を試みる連合国軍の航空戦力に対して、日本軍が航空戦力を動員して対抗したものです。
結果として、日本軍は多くの航空戦力を削がれ、後の作戦に影響を及ぼすことになりました。
第12問:戦国武将の異名(難易度:★★☆☆☆)
第12問は戦国時代の武将の異名クイズです。
次に挙げた戦国武将の中で異名として間違った組み合わせのものを選んでください。
①伊達政宗:独眼竜
②武田信玄:甲斐の虎
③上杉謙信:越後の龍
④北条早雲:相模の獅子
⑤真田幸村:日本一の兵
⑥立花道雪:剛勇鎮西一
⑦毛利元就:謀神
⑧今川義元:海道一の弓取り
⑨島津義弘:鬼島津
さて、間違いの組み合わせはどれでしょうか?
正解と解説
正解は「④北条早雲:相模の獅子」と「⑥立花道雪:剛勇鎮西一」です。
間違いは1つだけではありませんよ。
「相模の獅子」と呼ばれたのは北条早雲の孫にあたる「北条氏康」です。
余談ですが、この戦国時代の北条家は鎌倉時代の北条氏と区別するために「後北条氏」とされています。
北条早雲も元々は「伊勢宗瑞/新九郎」と名乗っており(生前は一度も北条を名乗っていませんでした)、息子の「北条氏綱」から本格的に「北条」を名乗っています。
「剛勇鎮西一」と呼ばれたのは「立花宗茂」です。
またまた余談ですが、立花道雪(戸次鑑連:べっきあきつら)が用いていた刀は「雷切丸」です。
この刀の別名はその飾りから「千鳥」とも呼ばれていました。
察しの良い方は気づいたかと思いましたが、漫画の「NARUTO」の技である「雷切」や「千鳥」はこの刀が由来です。
立花道雪はこの刀が由来か、それとも戦場での活躍からか、はたまたその両方からか「雷神」と呼ばれていたそうです。
真田幸村は「日本一の兵」と書いて「ひのもといちのつわもの」と読みます。
「兵」はこの時は「武士」を意味します。
今川義元の「海道一の弓取り」で、海道は「東海道」を意味します。
当時今川家は駿河や遠江(現在の静岡県に相当)を中心に治めていました。
「弓取り」は弓矢の技術に長けたからではありません。
弓矢を用いて戦う者=武士から転じて、「弓取り」は「武士」を意味します。
第13問:会社の経営破綻(難易度:★★☆☆☆)
第13問はまさに直近、平成に起きた出来事です。
平成はバブル経済の崩壊をはじめ、まだ記憶に新しい2008年のリーマンショックがあり、令和に入った2020年にはコロナウイルスの蔓延など世界経済を目まぐるしく変化させました。
当然、これらの出来事は会社に危機をもたらしました。
耐え抜いた会社もあれば、再生できず経営破綻になった会社も数多くあります。
さて問題ですが、以下に挙げた会社は全て「平成の大型倒産(負債総額上位)の会社(日本)」です。
以下の中で「負債総額が最も大きい会社」を選んでください。
①タカタ(株)
②協栄生命保険(株)
③(株)武富士
④(株)日本航空インターナショナル
⑤山一証券(株)
⑥(株)そごう
⑦リーマンブラザーズ証券(株)
⑧千代田生命保険(株)
⑨(株)マイカル
データは公表されたものです。
正解と解説
正解は「②協栄生命保険(株)」です。
その負債総額は何と「4兆5297億円」とされています。
ちなみに、2位は⑦リーマンブラザーズ証券(株)で負債総額は「3兆4314億円」です。
2位に1兆円以上の差をつけてぶっちぎりの大型倒産です。
まずは、それぞれの負債総額を見てみましょう。
①タカタ(株):1兆823億円
②協栄生命保険(株):4兆5297億円
③(株)武富士:1兆4949億円
④(株)日本航空インターナショナル:1兆5279億円
⑤山一証券(株):5100億円
⑥(株)そごう:6891億円
⑦リーマンブラザーズ証券(株):3兆4314億円
⑧千代田生命保険(株):2兆9366億円
⑨(株)マイカル:1兆3881億円
負債額出典(帝国データバンク)
https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/pdf/p190411.pdf
まず目立つのは「生命保険会社の負債額の大きさ」ですね。
とにかくバブル経済がはじけた後は、生命保険会社の倒産が相次ぎました。
いまある明治安田生命も合併を図ったのが平成の出来事です。
1990年前後、まだバブル経済が完全に崩壊する前、生命保険会社は「利率の高い商品」を売っていました。
今でこそ低金利低金利と騒がれ、銀行の定期預金も超低金利でほとんど利息が付きません。
1%もあれば「高いなー」と言われるのが今の時代です。
しかし、バブル絶頂期は6%や7%は当たり前の、今から見れば超利回りの良い商品が主流でした。
銀行も生命保険会社も、証券会社もバブルに湧き、「この金利でも十分稼げる」と沸き立っていました。
しかし、1990年代初頭にバブル経済は崩壊し、「失われた10年」とも言われる経済氷河期に突入します。
現在の40代前半の人は経済の停滞から就職難に陥り「就職氷河期」と言われた時代真っただ中の時代が90年代中盤~後半です。
話を戻しまして、金利や利率は一度決めたら勝手に変更はできません。
勝手な変更は契約違反になります。
10年固定契約なら10年は固定され、30年固定なら30年間固定されます。
まさかバブル経済が崩壊し急激に経済が悪化するとは思わなかった会社は多いです。
とはいえ、一度売った商品は契約を反故にできない…
超利回りの良い商品の利息に苦しむ銀行、生命保険会社、証券会社は多くありました。
預かった資金で稼ぐ以上に、顧客に払う利息が圧倒的に高い…
いわゆる「逆ザヤ状態」です。
この影響で協栄生命保険(株)は平成12年10月に4兆5297億円という戦後最大の負債を抱えての倒産となりました。
時はほぼ変わらず、2000年前後には多くの銀行、生命保険会社、証券会社、果ては小売業まであらゆる分野がバブル経済崩壊の影響で息切れして倒産に追い込まれました。
ただ、これはバブル経済崩壊の影響だけでなく、粉飾決算や飛ばしなどといった長年の不正会計の積み重なりが直接的な要因です。
リーマンブラザーズ証券(株)は当然ながら、2008年に起きたリーマン・ショックが原因です。
この時には「サブプライムローン」なんて言葉がたびたび出てきましたね。
当時の自分でも新聞やニュースで何度も見聞きしました。
解説していると長くなるので簡潔に書きます。
「サブプライムローン問題」は正確には「サブプライム住宅ローン危機」です。
リーマンブラザーズは低所得者層向けにローン(貸付)をしていました。
しかし、過剰な貸付(しっかり審査せずに返済の見込みのない人でも貸付)のせいで債務を回収できなくなり、多大な負債を抱えたのです。
土地はこれからも上がる、経済も良くなる。
だから今のうちにどんどん契約を取ろうと過剰で安易な見方が事の発端です。
このリーマンブラザーズの経営破綻は当時の日本円換算で64兆円とも言われ、アメリカは国の経済崩壊危機にまで陥りました。
世界一の経済大国であるアメリカの金融危機は当然世界にまで広がり、日本もその例外ではなく、余波を受けました。
2008年から数年間の大型経営破綻はこのリーマン・ショックが大きな原因です。
タカタ(株)はエアバッグ事件ですね。
あまりに大量のリコールにより、資金が底をつき世界有数の自動車部品メーカーまでのし上がったものの、3代でその会社の歴史に幕を下ろすことになりました。
(株)そごうはともかく、(株)マイカルは聞きなれない人もいるかと思います。
しかし、「ワーナーマイカルシネマズ」はまだ聞いたことがあるのではないでしょうか。
今でこそイオングループに吸収され、「イオンシネマ」となっていますが、小売業+映画事業を最初にやったのはマイカルです。
当時としては画期的で、買い物のついでに映画を見るというのは新鮮だったと思います。
第14問:三好三人衆の官位について(難易度:★★★★☆)
第14問は難しいですよ。
相当日本史の資料集を見ていないと正しく答えられないでしょう。
しかし、自分は鬼ではないので考えれば絞り込めるように出題します。
問題は戦国時代の三好家の重臣である「三好三人衆」についてです。
当時から三好家の中で色々と暗躍しており、室町幕府第13代将軍で剣豪将軍と名高かった足利義輝を謀殺しました(1565年、永禄の変)。
その3人は
三好宗渭(政勝)
というのは戦国時代ファンなら有名でしょう。
問題は「その三好三人衆の官位の組み合わせで正しいものはどれか?」です。
官位は徐々に上がったりして生涯で変化しますが、以下の中から組み合わせとして正しいのを選んでください。
①
三好宗渭:主税助
三好長逸:下野入道
岩成友通:日向守
②
三好宗渭:下野入道
三好長逸:主税助
岩成友通:日向守
③
三好宗渭:日向守
三好長逸:下野入道
岩成友通:主税助
④
三好宗渭:下野入道
三好長逸:日向守
岩成友通:主税助
⑤
三好宗渭:日向守
三好長逸:主税助
岩成友通:下野入道
⑥
三好宗渭:主税助
三好長逸:日向守
岩成友通:下野入道
さて、正しい組み合わせはどれでしょうか?
よく考えれば絞り込みができて答えが導き出せます。
正解と解説
正解は「④」です。
④
三好宗渭:下野入道
三好長逸:日向守
岩成友通:主税助
が正しい組み合わせです。
まずは、「宗渭」という名前から出家した人物→「入道」と連想できれば2つに絞り込めるはずです。
そこからは難しいですが、「三好三人衆で筆頭格が誰か」が分かれば正解に近づきます。
筆頭格とされたのは「三好長逸」です。
そして「従四位下、日向守」というかなり高い官位を授かるまで至る人物が筆頭格であるとすると…
三好長逸=日向守
となります。
残った岩成友通=主税助となると、正解は④です。
第15問:長島一向一揆について(難易度:★★☆☆☆)
戦国時代に関する問題が多いのはわかっていますが、好きなので仕方ないです。
第15問は誰もが知る「織田信長」に関する問題です。
織田信長とは切っても切れない対仏教問題。
一向宗(この当時の最大勢力は本願寺)とはとにかく仲が悪かったです。
そんな中起こった問題の1つが「長島一向一揆」です。
当時としては非常に大規模となる10万以上の兵が動員された大戦です。
問題はその長島一向一揆の問題です。
長島一向一揆の鎮圧は1回だけではなく複数回に渡って鎮圧されました。
次に挙げる中で、「最も多くの数の織田側の武将が討死したとされるもの」はどれでしょうか?
①第1次侵攻
②第2次侵攻
③第3次侵攻
④第4次侵攻
正解はどれでしょうか?
正解と解説
答えは「③第3次侵攻」です。
ひっかけですが、④第4次侵攻はそもそもありません。
第3次侵攻で長島一向一揆は鎮圧されました。
第1次侵攻では、織田軍は5万以上の兵を動員したものの、長島一向一揆側は10万以上と倍以上の数で迎え撃ちました。
それだけではなく、長島は当時伊勢国です。
隣は鉄砲産地で有名な紀伊国。
兵数だけではなく、火器の面でも一向一揆側は有利でした。
結果として、一向一揆側は長島防衛に成功、織田軍は戦略面で悩むことになりました。
第2次侵攻は、前回の反省を生かして港の取り締まりを強化しようとしましたが、あまりうまく事が運ばなかったそうです。
それでも兵の練度と物量を駆使して伊勢国北側を制圧しました。
今回は織田軍約8万の軍勢に対して、一向一揆側は約2万とされています。
北伊勢は織田軍に取られたものの、一向一揆側は長島の維持には成功しています。
第3次侵攻では、織田軍は領土全域から兵を動員し、ここでカタを付ける気でいました。
その数約12万人とされています。
対する一向一揆側も北伊勢を失い、長島の防衛と織田を退けるために10万以上を動員したとされています。
今回は織田側は伊勢で有名な九鬼水軍(筆頭:九鬼嘉隆)も動員しました。
主だった武将(明智光秀や羽柴秀吉は他の箇所の警戒防衛のため、第3次侵攻には不参加)はほぼ動員され、これにより長島は完全に織田軍に包囲されました。
海運封鎖、陸上は織田軍の四方包囲により一向一揆側はなすすべなく鎮圧されていきました。
拠点長島では一向一揆側は籠城戦に徹したものの、兵糧攻めで長くはもたず、壊滅となりました。
ここで最後ですが、兵糧攻めで逃走を図ったものを信長は許さず徹底的に殺していきました。
冷徹な対応に怒った一向一揆側は、少数の兵で徒党を組み、織田軍の手薄な拠点を襲撃しました。
この襲撃で織田一族(信長の兄弟)を多く失うことになりました。
当然このことに信長は怒り、報復として残った一向一揆集を徹底的に殲滅することを決めました。
敵拠点を逃げられないよう何十にも柵を張り巡らせて包囲、そのうえで中に火を放ち火攻めで全滅させたとされています。
これにより長島一向一揆は鎮圧されました。
第3次侵攻では12の武将、うち織田一族6名の武将を失う結果となりました。
長島一向一揆は織田信長の徹底した一揆に対する殲滅作戦ぶりが見て取れると思います。
第16問:戦国武将・支倉常長について(難易度:★★★☆☆)
次は選択クイズではありません。
伊達家家臣の「支倉常長」について問題です。
日本史を勉強した方なら支倉常長を知っている人は多いと思います。
理系の自分ですら日本史の資料集(ぶっちゃけると退屈な国語の授業などで受験科目ですらない日本史の資料集を眺めていました)を見て知っています。
支倉常長といえば、江戸時代にローマへと渡航した遣欧使節団の1人です。
問題は以下です。
「支倉常長がローマへ渡航した時に使用した船の名称、および与えられた洗礼名は何か?」です。
この2つの問題を同時に正しく答えられますか?
日本史資料集をしっかり見て覚えていればさほど難しい問題ではありません。
ちなみに、洗礼名はピカソのように長いものではないのでご安心ください。
正解と解説
正解は、船の名称が「サン・ファン・バウティスタ号」です。
洗礼名は「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ」です。
船の名前は「洗礼者・聖ヨハネ」という意味です。
元々この船は仙台藩が所有するもので、スペインの技術で建造されたものです。
ただし、この船の名称はスペイン側の資料によるものらしく、日本での名称はどうだったかは残されていません(単に黒船とも)。
第1回出港時では「サン・セバスチャン号」で出港しましたが、暴風の影響で座礁、帰国しています。
第2回出港時でローマへ赴く際に「サン・ファン・バウティスタ号」で向かっています。
この船(ガレオン船)は新規建造船ではなく、第1回出港時に座礁したサン・セバスチャン号の改造船ではないかとも言われていますが、事実は未だにはっきりとしていません。
(1612年に第1回出港、1613年に第2回出港となっているので、短期間で1から建造するのは難しいという説のためでしょうか)
行きは太平洋を抜け、メキシコ湾経由で大西洋を抜けヨーロッパへ。
帰りは大西洋からカリブ海を抜け、太平洋を渡り東南アジア経由で日本へと戻ってきました。
支倉常長の洗礼名はシンプルです。
ドン、フィリッポ、フランシスコといかにも洗礼名と思わせる単語が並びます。
ファセクラも「支倉」をもじったものなので覚えやすいですね。
元々豊臣政権の時代から「バテレン追放令」や「サン=フェリペ号事件」でキリスト教徒に対する迫害はありました。
しかし、江戸幕府成立後その勢いは増していきます。
渡航の年である1613年に新たな伴天連追放令が出され、翌年1614年には宣教師などが国外追放されました。
1622年には「元和の大殉教」と呼ばれる処刑で幼い子どもを含む55名が公開処刑に、さらに翌年1623年には幕府のお膝元である江戸で55名、翌1624年には東北地方で108名、平戸(現在の長崎県)で38名が公開処刑されたとされています。
どれだけ幕府が教徒一門が徒党を組んで幕府転覆を恐れていたかが見て取れます。
支倉常長は1620年に帰国していますが、1622年の有様を見てかその年で亡くなっています(殉教とも)。
時は流れて1636年、誰もが知るキリスト教徒の一大内乱の「島原の乱」が発生します。
この直接的な要因はキリスト教徒迫害ではなく、藩主が重税を課していた(石高に見合わない税の割合を策定していた)をことが原因です。
この乱はキリスト教徒の乱として有名ですが、実態は重税に苦しむ農民の一揆と、キリスト教徒の迫害に対する反抗の両方が合わさったものです。
島原の乱以降の天草は幕府直轄領となり明治維新がなされるまで幕府に直接統治されることになりました。
第17問:旧ユーゴスラビアの分裂国で正しくないものは?(難易度:★☆☆☆☆)
時代はまた戻り、一気に平成の時代になります。
かつてヨーロッパに存在した「ユーゴスラビア」という国はご存じでしょうか。
1990年代に入って幾度となく分裂を繰り返し、受験に苦しんだ人も多いのではないでしょうか(年が変わって分裂するので覚えなおしという面で)?
元々ヨーロッパは他民族が存在する場所。
ユーゴスラビアはその多様性を象徴する国でした。
多様性から「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字をもつ、1つの国家」とも言われました。
さて、問題はユーゴスラビアは現在は何度かの分裂を経て7つの国に分かれています。
その7つの国の中で旧ユーゴスラビアに含まれない国は次のうちどれでしょうか?
①セルビア
②コソボ
ヨーロッパの地図が頭に入っていれば正解は容易でしょう。
正解と解説
正解は、「⑥アルバニア」です。
元々はソ連軍に影響を受けて社会主義国でしたが、反ソ連・親中化、さらには反中化を経て、1991年に「アルバニア共和国」として成立しました。
ずっと前より反ユーゴスラビア主義だったのでユーゴスラビアの一部ではありません。
以下の図を見ると分かりやすいですね。
「コソボ」で気づいた人も多いと思いますが、あの「コソボ紛争」の国です。
もう20年以上も続いており、セルビアからコソボが独立した現在もセルビアが反発して未だに紛争は続いています。
ユーゴスラビアがよくここまでの他民族を抱えて何十年もの間1つの国として成り立っていたのかが不思議です。
第18問:天保の大飢饉で犠牲者0の藩は?(難易度:★★★★☆)
第18問は江戸時代の話です。
江戸時代には複数の「大飢饉」が起こりました。
江戸四大飢饉が代表的で
①寛永の大飢饉(1642年~1643年)
②享保の大飢饉(1732年)
寛永の大飢饉を除けば約50年周期で大飢饉が襲っています。
それぞれの原因は色々と考察されていますが、いずれも凶作、原因は洪水や冷夏、冷害が主要因であることが多いです。
そんな大飢饉ですが、上記に挙げた大飢饉は中学生でも知っています。
そしてその中でも最も酷いとされているのが「天明の大飢饉」であることも多くの人が知っているでしょう。
今回出す問題はそんな易しいものではありません。
問題は、「天保の大飢饉」についてです。
前回の大飢饉(天明の大飢饉)を受けて、各藩は飢饉対策をしていました。
それでも長きにわたる大飢饉では十分な対策が取れず、全国、特に米作地方である東北地方は多くの餓死者を出すことになりました。
そんな中、東北地方で1人の犠牲者を出さずに済んだとされる藩があります。
本当に犠牲者0かどうかは怪しいですが、今となっては調べるすべもないです。
しかし、犠牲者が出たとしても少数であったことは正しいかと思われます。
さて、その東北地方の藩は以下のうちどれでしょうか。
①米沢藩
②山形藩
③庄内藩
④弘前藩
⑤盛岡藩
⑥仙台藩
学校の教科書では「大飢饉はこれだけあって、幕府は改革を余儀なくされた」なんて程度しか教えてくれないでしょうから、踏み込んだところまで知っている人は少ないかと思います。
正解と解説
正解は「①米沢藩」です。
他にも現在の愛知県にあたる「田原藩」も犠牲者0とされています。
(田原藩は普段から民衆だけでなく役人も含めて質素倹約の生活を心がけ、食糧備蓄に力を入れていたことで乗り切りました)
米沢藩は天明の大飢饉を受けて米に変わる食用物(かてもの)を研究し、書物にまとめて藩内に頒布していました。
これは天明の大飢饉では米や穀物の蔵を開放して何とか凌いだものの限界があり、食料が米中心では飢饉は乗り越えられないと判断してのことです。
米に変わる食用物があれば、米はできる限り消費を抑え、代わりの食用物で飢えを長期間凌ぐことができると考えたわけです。
結果的にこの策は見事にはまり、米沢藩は犠牲者0で済んだとされています。
ちなみに、この「かてもの」は第2次世界大戦の食糧難にも役立ったとされています。
第19問:天下五剣について(難易度:★★★★☆)
さて、今回は趣向を変えて「歴史文化財」から問題です。
今やすっかり有名になってしまった「刀剣」。
中でも「天下五剣」は有名中の有名、刀剣の筆頭格でしょう。
あの剣豪将軍である足利義輝の愛刀(というより足利将軍家の家宝といったほうが正確でしょうか)として有名です。
なんせ自分でもメディアで有名になるから知っているくらいです。
③数珠丸恒次
④鬼丸國綱
⑤童子切安綱
この5振りですね。
童子切安綱は酒吞童子を切ったとか、鬼丸國綱は不吉の刀とか、まあ名刀と呼ばれるものには何かといわくつきなのも有名ですね。
特に、童子切安綱の刀身は美しいものですよ。
まさに名刀です。
他にも幾度となく持ち主を変え、猛将・立花宗茂も持った「波泳ぎ兼光」が好きです。
(暴れん坊将軍で有名な江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が「その刀をぜひ生で見たい」と何度も希望したものの、ついぞ見ることが叶わなかったとの逸話も)
銃砲刀剣好きの自分なら何時間でも語ってしまいそうです。
そんなことは余談です。
さて問題ですが、単純に刀の名前程度を問題になどしません。
「上記5振りの刀のうち、最も刃渡りの長さ(刃長)が短いものはどれか?」です。
刀剣マニアの方ならすんなり答えられますよね?
正解と解説
正解は「②大典太光世」です。
それぞれの刃長は
①三日月宗近:刃長80cm
②大典太光世:刃長65.75cm
③数珠丸恒次:刃長81.1cm
④鬼丸國綱:刃長78.2cm
⑤童子切安綱:刃長79.9cm
です。
他が概ね80cm前後なのに対し、大典太光世だけ短いのですね。
第20問:スターリンの本名は?(難易度:★★☆☆☆)
第20問はシンプルです。
「スターリン」とは「鋼鉄の」を意味するものであり、通称です。
かのプロイセン王国、ドイツ帝国で「鉄血宰相」と呼ばれた「オットー・フォン・ビスマルク」にあやかったどうかは分かりません。
いずれにしても、「スターリン」は通称で、彼の本名は別にあります。
知っていればなんてことはない問題ですが、意外と知らない人が多いです。
正解と解説
正解は「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ」です。
スターリンの経歴は語るまでもないですね。
個人的にはかのナチスドイツの指導者であった「アドルフ・ヒトラー」より酷い人物と思います。
そう思う理由は、当時のウクライナの食糧を収奪し大飢饉に追い込んだ「ホロドモール」で300万人を超える犠牲者を出したからです。
もちろんこれだけではなく、側近であろうと徹底して反乱分子を排除したことを鑑みてです。
ユダヤ人迫害で有名な「ホロコースト」もヒトラーが直接的に手を下したわけではなく、当時親衛隊トップであった「ハインリヒ・ヒムラー」が任命されて実行したものです。
ある意味では、ヒトラーよりも残虐でした。
ホロコーストの犠牲者は約600万人と言われています。
なお、ヒムラー自身は残酷なものを見ると吐き気を催すほどで、決して強気な性格ではなかったそうです。
(ただし、それを指摘した者は処刑するほど残酷であったのは事実らしいです)
まとめ
とりあえず8問を作って見ました。
この時点で全て正解できたのなら大したものだと尊敬します。
特に、第8問は難しいのではないかと思いますね。
ただしヒントに書いたように、単純に発生年を考えるのではなく、地理的に考えれば正解を出せるように考えています。
第4次川中島の戦いで武田家か上杉家に関すること、そして三増や三方ヶ原といった地名から上杉家ではなく武田家に関することと推測し、武田家がどのように攻めるのか考えれば意外と順番に並び替えられます(西進から北上、途中で南方に方針転換)。
もしそれぞれの発生年を答えることができたのなら凄いことだと思います。
2024年2月12日追記
メインは第11問ですね。
通常は学校ではさらりとしか習わない太平洋戦争ですが、どれだけ詳しく知っているでしょうか。
多くの人はミッドウェー海戦で大敗、徐々に戦力が北上、資源や人員不足から本土決戦へ程度しか知らないと思います。
実は上記に書いたこと以外にブーゲンビル島沖海戦や第一次/第二次ベララベラ海戦、第一次/第二次/第三次ソロモン海戦などソロモン諸島だけで10を軽く超える戦いをしています。
多数の奮戦した駆逐艦などをぜひ知ってもらいたいですね。
2024年2月15日追記
第17問はよく知ってもらいたいです。
ウクライナ戦争に隠れがちですが、旧ユーゴスラビアは長年に分かる紛争がありました。
今は昔に比べると独立した国も多く紛争は減ったものの、コソボ紛争は未だに続いています。
イスラエルのパレスチナ問題もそうですが、ニュースで取り上げられていなくても毎日が戦場です。
日本は陸地繋がりでないため、古来より民族同士による大規模な紛争はないものの、ヨーロッパは陸地繋ぎであることから何千年も戦争を繰り返してきました。
それが2024年の今でもヨーロッパに限らず世界中で紛争の火種があることは知っておきたいところです。